岩見沢市の紋章は、金・銀・緑の3色で形られ正菱形でかたどられています。形は北海道の輪郭を示し、周囲は銀色のフチで囲んで銀波をあらわします。 (昭和23年4月1日制定) |
合併要覧 〜市町村合併特例法改正改正以後の合併都市の事例集〜
「岩見沢市」地名の由来 | |
アイヌ語の地名が多い北海道において、岩見沢は数少ない和名の都市です。明治11年に幌内煤田を開採のため、開拓使は札幌〜幌内間の道路を開削に当たり、工事に従事する人たちのため、当市の北部、幾春別川の川辺に休泊所を設け、ここで浴(ゆあみ)して疲れをいやしたといわれています。
当時の人々にとって、この地は唯一の憩いの場所として、「浴澤」(ゆあみさわ)と称するようになり、これが転化して「岩見澤」(いわみざわ)と呼ばれるようになったといわれています。 |
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岩見沢のおいたち | |
明治15年11月13日、幌内媒田鉄道の幌内〜手宮間が全線開通し、うっそうとした未開の地に文化の光が差し始めました。 明治16年に公布された移住士族取扱規則により、この地に札幌県勧業派出所が設置され、明治17〜18年には、山口県・鳥取県ほか10県からの士族277戸、1,503人の集団移住により、初めて開拓の鍬は打ち下ろされました。 このようにして、次第に市街が形成され、明治17年10月6日、設村の告示により岩見澤(イワミザウ)村となり、戸長役場、郵便局も設けられ、開拓の事業も順調に進み、活気のある村となってきました。 明治22年には、岩男澤・滝川・忠別太(現旭川)問、明治23年には岩見澤〜夕張間に道路が開通しました。また、明治24年に岩見澤〜歌志内間、同25年に岩見澤〜輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見澤駅も元町から現在地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上交通の要衝となりました。 明治30年10月には空知支庁が設置され、同33年7月、1級町村制による岩見澤村となり、人口も12,518人、村勢は急速に伸展しました。 同39年10月には町制を施行し、同41年には北海道では函館に次いで二番日に上水道か完成しました。 昭和18年、待望の市制を施行。同32年桂沢多目的ダムの完成によって、上水道拡張事業や都市計画も急速に進みました。同35年岩見澤〜新篠津を結ぶ岩見澤大橋が完成すると、石狩川北岸地帯の豊富な賀源開発と生産物資の集散地の拠点となり、空知における行政・産業経済・教音文化などの中核として確たる地位を築きあげてきました。 また、この度廃置分合により合併する北村、栗沢町と岩見沢市との関係も非常に深く、北村は、明治27年山梨県に本拠を構える北村雄治氏が土地の貸し下げを受け北村農場を開設し、地名を開拓功労者の姓をもって北村としました。明治33年7月当時の岩見澤村より分村し、戸長役場を開設しました。 一万、栗沢町は、明治23年和歌山県の山田勢太郎氏が入植し、岡山農場をひらきました。その後も岐阜、富山、香川、滋賀、徳島など各県から入植が続き、栗澤の大地を切り開いてきました。地名をアイヌ語の「栗の多い澤」(ヤム・オ・ナイ)から栗澤としました。明治25年2月栗澤村が分村し、その後、明治30年2月戸長役塚を開設しました。 このように、北村、栗沢町は、明治中期まで岩見澤村として一つの地域でありました。 両町村それぞれが分村の歴史を経て、これまで100年あまりが経過しましたが、平成18年3月27日再び新しい岩見沢市を構成することとなりました。 |
001 | ■合併後の住所について |
002 | ■岩見沢市の機構について |
003 | ■住民登録・戸籍等の手続きについて |
004 | ■市民相談について |
005 | ■税等について |
006 | ■国民健康保険について |
007 | ■医療費助成について |
008 | ■各種福祉サービスについて |
009 | ■保健事業について |
010 | ■保育園・保育所について |
011 | ■医療施設について |
012 | ■ごみ・し尿等の処理について |
013 | ■上下水道について |
014 | ■市営住宅の入居について |
015 | ■道路除雪について |
016 | ■農業について |
017 | ■商工・労政について |
018 | ■企業誘致について |
019 | ■観光について |
020 | ■教育について |
021 | ■他都市との交流について |
022 | ■消防・防災について |
023 | ■市内の主な施設 |
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